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疾患啓発表現と広告表現の違い  恐怖訴求の限界とナッジ理論に基づく行動変容メッセージの設計思想

2026/7/1 08:49

疾患啓発表現と広告表現の違い  恐怖訴求の限界とナッジ理論に基づく行動変容メッセージの設計思想

疾患啓発表現と広告表現の違い

恐怖訴求の限界とナッジ理論に基づく行動変容メッセージの設計思想

日本医療福祉機構 調査レポート|関連プロジェクト:医療広告・情報設計プロジェクト


1. はじめに――「買ってもらう」ためではなく「気づいてもらう」ための表現

レポート39で詳述した薬機法の広告3要件は「これは広告に該当するか」という判定基準を、レポート45で詳述した表現デザインの実務は「規制内でどう表現するか」という個別テクニックを論じてきた。本レポートは、これらとは異なる、より根本的な問いに立ち返る。それは「そもそも疾患啓発のメッセージは、通常の商業広告と何が違うべきなのか」という、設計思想レベルの問いである。

疾患啓発コンテンツの目的は、レポート37で詳述したとおり「製品を売る」ことではなく「疾患への気づきを促し、適切な受診行動につなげる」ことにある。この目的の違いは、単なる規制上の違いにとどまらず、メッセージそのものの設計思想——どのような感情に訴えかけ、どのように行動を後押しするか——において、通常の商業広告とは異なるアプローチを要求する。本レポートでは、公共広告における啓発表現の実践例、恐怖訴求という心理学的手法とその限界、そしてナッジ理論という行動経済学の知見を、疾患啓発コンテンツの表現設計に応用する視点を、製薬企業・医療機器企業のマーケティング担当者・コンテンツ制作者が活用できる形で詳述する。


2. 公共広告という参照モデル

2.1 ACジャパンという公共広告の中核組織

日本における公共広告・啓発キャンペーンの代表的な担い手が、公益社団法人ACジャパンである。Wikipediaの解説によれば、「公共広告によって、国民の公共意識を高めることを目的に活動している民間の団体である。アメリカの『広告協議会(アド・カウンシル)』を見本として、1971年(昭和46年)に大阪府で前身である任意団体の『関西公共広告機構』が発足」したことに始まる、50年以上の歴史を持つ組織である。

ACジャパンの活動は、「全国の企業や団体、一般個人の方から寄せられた会費のみで運営されている民間団体」(あしなが育英会の解説)という特徴を持ち、「政府や公的な機関が運営や助成をしている団体ではなく、税金も使われておりません」という、民間の自発的な社会貢献活動として位置づけられている。

2.2 医療領域を含む「支援キャンペーン」

ACジャパンの活動には、疾患啓発と直接関わる枠組みが存在する。公式サイトの解説によれば、「公共福祉や医療・国際貢献等に取り組む非営利団体等にACジャパンの仕組みを利用していただき広告を展開する『支援キャンペーン』」が主要な活動の一つとして位置づけられており、「ここ数年は7〜8の団体を支援しています」とされている。2024年度・2025年度ともに8団体8作品という規模で継続的に実施されており、医療・健康に関わる非営利団体の啓発活動が、こうした公共広告の枠組みの中で表現手法のノウハウを蓄積している。

2.3 商業広告と公共広告の目的の違い

これらの公共広告の事例が示す重要な示唆は、「多くの人に共通する重要な社会問題をテーマに広告を制作し、全国のメディアを通じて発信する」(ACジャパン公式サイト)という、公共広告の目的の性質そのものにある。商業広告が特定の製品・サービスへの購買行動を最終ゴールとするのに対し、公共広告・疾患啓発は「意識の変化」「気づき」「行動の変容」を最終ゴールとする。この目的の違いこそが、表現手法の違いを生む根本的な理由である。


3. 恐怖訴求という手法とその限界

3.1 恐怖訴求の定義

成城大学の広告論解説では、「恐怖訴求」という情緒訴求の一手法について、詳細な説明がなされている。「恐怖訴求とは、特に、健康、病気、事故などに関する恐怖の感情を喚起し、そのブランドを使えば、あるいは、そのメッセージに示されていることをすれば、解決するということを示す訴求技法です」とされ、「歯磨きをするときに、歯垢まで取らないと虫歯や歯周病になる可能性があるけれど、我が社の電動歯ブラシを使えば大丈夫であるということを示す広告は、恐怖訴求を用いていると言える」という具体例が示されている。

疾患啓発コンテンツにおいても、レポート42で詳述したヘルスビリーフモデルの「重大性の認知」を高めるという観点から、この恐怖訴求的な要素が用いられることは自然な傾向として存在する。「この症状を放置すると、重大な合併症につながる可能性がある」というメッセージは、まさに恐怖訴求の構造を持つ。

3.2 「中程度の恐怖」という重要な閾値

しかし、同解説では極めて重要な留保が示されている。「ただし、中程度の恐怖を喚起することが大事です。恐怖が大きすぎると、受け手がメッセージを避けてしまうかもしれないからです」。

この指摘は、疾患啓発コンテンツの設計において決定的に重要な視点である。「軽症でも突然死のリスクがある」「放置すると失明の可能性がある」といった強すぎる恐怖喚起は、読者に「見たくない」「考えたくない」という回避行動を引き起こし、かえって疾患啓発コンテンツから読者を遠ざけてしまう逆効果のリスクを持つ。レポート37で詳述した「医療用医薬品による治療以外に手段がないかのように誤認させることの禁止」という規制上の要請とも重なるが、規制の観点を超えて、心理学的な効果の観点からも、過度な恐怖訴求は疾患啓発の目的達成を妨げる可能性がある。

3.3 恐怖訴求からの脱却という設計思想

この知見を踏まえると、疾患啓発コンテンツの表現設計においては、恐怖を煽ることよりも、レポート38で詳述したプレインランゲージによる正確でわかりやすい情報提供、そして「気づいて、適切に対処すれば大丈夫」という前向きなメッセージのバランスが重要となる。レポート32で詳述した企業向けSASスクリーニングにおける「診断・治療をすればこれまで通りの仕事が可能」という前向きな枠組みの提示は、まさにこの「中程度の恐怖」というバランスを実践した好例である。


4. 行動経済学とナッジ理論という新たな視点

4.1 厚生労働省が注目する「ナッジ」

厚生労働省が運営する「e-ヘルスネット」の解説では、ナッジという行動科学的アプローチが、健康行動促進の重要な手法として紹介されている。「がん検診や特定健診の受診率向上、特定保健指導の場面における運動習慣や食習慣の獲得など、自治体の職員や保健師などの専門職は様々な方法で受診勧奨や行動変容を促す努力を試みています。しかし、『健康無関心層』といった健康行動に興味がない人などをはじめとして、実際に人の行動変容を実現させるのは難しいと感じている方は多いと思います。このような『行動』に関する課題の解決策の一つとして注目されてきたのが『ナッジ』・『行動経済学』です」とされている。

この解説が指摘する「健康無関心層」という存在は、レポート42で詳述した受診遅延の背景にある層と重なる。恐怖訴求のような強い介入ではなく、より穏やかに行動を後押しするナッジという手法が、こうした層への働きかけにおいて有効な選択肢となりうる。

4.2 ナッジの定義

NECソリューションイノベータの解説では、ナッジについて「経済的なインセンティブを大きく変えたり、罰則・ルールで行動を強制したりすることなく、行動科学に基づいた小さなきっかけで人々の意思決定に影響を与え、行動変容を促す手法・戦略」と定義されている。「レジ待ちの並び位置に貼られた足跡のステッカー」「トイレの『いつも綺麗に使っていただいてありがとうございます』という貼り紙」といった、日常に溶け込んだ小さな仕掛けが、ナッジの典型例として挙げられている。

4.3 二重過程理論という理論的基盤

ナッジ・フォー・ヘルスの解説では、ナッジ理論の背景にある心理学的基盤として「二重過程理論(Dual Processing Theory)」が紹介されている。「人の意思決定は、直感的・感情的で素早い“システム1”と、理論的・理性的で、ゆっくりである“システム2”の2つがあるというものです……そして、たいていはシステム1により行われます」とされている。

この理論的知見は重要な示唆を持つ。人は日常の意思決定の多くを、理性的な熟考(システム2)ではなく、直感的で自動的な判断(システム1)によって行っている。疾患啓発コンテンツが、医学的に正確で網羅的な情報(システム2に訴える情報)を提供するだけでなく、「今、症状チェックしてみませんか」という気軽な行動の入口(システム1に働きかける仕掛け)を用意することが、実際の行動変容につながりやすい。レポート40で詳述した症状検索エンジンのような、手軽に始められるツールの設計は、まさにこのシステム1への働きかけという観点から、その効果を理解することができる。

4.4 日本における政策的な活用

厚生労働省の解説では、ナッジの政策的活用の広がりも示されている。「帝京大学大学院公衆衛生学研究科『ナッジを応用した健康づくりガイドブック』」「希望の虹プロジェクト『ソーシャルマーケティングを活用したがん検診の普及プロジェクト』」といった、日本国内での実践事例が参考資料として紹介されている。NECソリューションイノベータの解説でも、「日本でも2017年にナッジユニット『Behavioral Sciences Team(BEST)』が組織されています。BESTおよび環境省は、行動経済学会と共催で『ベストナッジ賞』を開催するなど」、国レベルでの体系的な取り組みが進んでいることが示されている。


5. ヘルスプロモーション理論という学術的基盤

5.1 米国国立がん研究所の理論書

国立保健医療科学院が公開する『一目でわかるヘルスプロモーション:理論と実践ガイドブック』(原著:米国国立がん研究所支援)は、公衆衛生の現場従事者向けに、ヘルスプロモーションを実践するための主要な理論を体系的にまとめた入門書である。この解説では、「本書の内容は、がんの予防・制御に限定していません。ここで述べられた理論は、多くの公衆衛生介入にとっての共通する有用な枠組」とされ、疾患啓発活動全般に応用可能な理論的基盤として位置づけられている。

こうした学術的に確立されたヘルスプロモーション理論——レポート42で詳述したヘルスビリーフモデルもその一つである——を参照することは、疾患啓発コンテンツの表現設計が、単なる経験則やセンスに依存するのではなく、エビデンスに基づいた方法論として確立されうることを示している。


6. 商業広告表現との対比という整理

6.1 目的・訴求の違い

これまでの議論を踏まえ、商業広告と疾患啓発表現の違いを整理すると、以下のような対比が浮かび上がる。

商業広告は「製品の優位性」を訴求し、購買という一回的な行動を最終ゴールとする。一方、疾患啓発表現は「症状への気づき」を促し、受診という、その後の治療継続まで含む長期的な行動変容の起点を作ることを目的とする。商業広告では強いインパクト・差別化が重視される一方、疾患啓発表現では、レポート38で詳述したように、正確性・わかりやすさ・過度な恐怖を煽らないバランス感覚が重視される。

6.2 レポート45で詳述した「誠実な代替表現」との接続

レポート45で詳述した「治療方針や医師の考え方を丁寧に説明する」という誠実な代替表現は、まさに本レポートで論じた「恐怖訴求からの脱却」「ナッジ的な穏やかな後押し」という設計思想と一致する。規制によって強い効果訴求ができないという制約は、むしろ疾患啓発本来の目的——気づきの提供と適切な行動への後押し——に適した、穏やかで誠実な表現へと自然に導く側面がある。


7. アレルギー疾患・睡眠医療領域における実践

7.1 花粉症啓発における「中程度の恐怖」の設計

レポート16で詳述した花粉症の初期療法を啓発する際、「今シーズンも我慢し続けると、症状はさらに悪化する」という中程度の警鐘と、「早めに準備すれば、快適に過ごせる」という前向きなメッセージのバランスが、恐怖訴求の適正水準を保ちながら行動を促す設計となる。

7.2 SASスクリーニングにおけるナッジ的アプローチ

レポート32で詳述した企業向けSASスクリーニングにおける「わざわざ医療機関に行かなくても、簡単に検査できる」というOCHISの発想は、まさにナッジ理論における「行動のハードルを下げる」という原則を体現している。強制でも罰則でもなく、行動のハードルを下げることで、システム1的な気軽さを利用して受検という行動を後押しする設計である。


8. 製薬企業・医療機器企業担当者への含意

8.1 恐怖訴求への依存を避けた表現ガイドラインの策定

疾患啓発コンテンツの社内制作ガイドラインにおいて、「重大性を伝える」ことと「過度な恐怖を煽る」こととの境界線を明確化し、レポート37で詳述した社内審査体制の審査項目に、心理学的な適正さの観点も組み込むことが望ましい。

8.2 ナッジ理論を応用した行動喚起の設計

疾患啓発コンテンツの末尾に、大きな決断(「今すぐ受診しましょう」)ではなく、小さな一歩(「まずはセルフチェックをしてみませんか」)を促す設計は、ナッジ理論の知見に基づいた、行動変容のハードルを下げる有効な手法である。

8.3 ACジャパン等の公共広告事例研究

自社の疾患啓発キャンペーンを企画する際、ACジャパンが毎年公開する公共広告作品(全国キャンペーン・支援キャンペーン)を継続的に研究することは、規制の中で効果的な啓発表現を実現するための、実践的な参考資料となる。


9. まとめ

疾患啓発表現と通常の商業広告表現の違いは、単なる規制上の制約の違いにとどまらない。両者は根本的に異なる目的——購買行動の喚起と、気づき・行動変容の促進——を持ち、この目的の違いこそが、表現設計における異なるアプローチを要求する。

恐怖訴求という広告心理学の古典的手法は、疾患啓発コンテンツにおいても「重大性の認知」を高める上で有効な要素を含むが、「中程度の恐怖」という閾値を超えると、読者のメッセージ回避という逆効果を招く。ナッジ理論・二重過程理論という行動経済学の知見は、強い介入ではなく、行動のハードルを下げる穏やかな後押しこそが、レポート42で詳述した「健康無関心層」を含む幅広い読者層に対して有効であることを示している。

レポート45で詳述した規制の中での誠実な代替表現という工夫は、こうした心理学的知見とも自然に整合する。規制によって強い効果訴求ができないという制約は、むしろ疾患啓発本来の目的に適した、穏やかで誠実、かつ科学的知見に裏付けられた表現へと導く、建設的な制約として捉えることができる。


参考情報・出典

  • Wikipedia「ACジャパン」(沿革・活動概要)

  • ACジャパン公式サイト「広告キャンペーン概要」

  • 共同通信PRワイヤー「ACジャパン2025年度広告作品が決定」2025年6月20日

  • あしなが育英会「2024年度ACジャパン支援広告キャンペーン開始!」

  • 成城大学入試情報サイト「広告における様々な情緒訴求」(恐怖訴求の定義・中程度の恐怖の重要性)

  • 厚生労働省 e-ヘルスネット「ナッジとは」(健康無関心層への行動科学的アプローチ)

  • NECソリューションイノベータ「ナッジとは?理論の意味や効果、事例をわかりやすく解説」(BEST・ベストナッジ賞)

  • ナッジ・フォー・ヘルス「基礎知識」(二重過程理論・システム1/システム2)

  • 国立保健医療科学院「一目でわかるヘルスプロモーション:理論と実践ガイドブック」(米国国立がん研究所『Theory at a Glance』翻訳版)


本レポートは公開情報・学術文献に基づき作成した調査レポートであり、個別の診断・治療判断やマーケティング戦略の助言を目的とするものではありません。疾患啓発コンテンツの制作にあたっては、医療広告ガイドライン・薬機法等の関連規範を遵守してください。

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